2007年05月15日
栽弘義監督の育てた選手達.4 (沖水時代の甲子園出場選手)
王者・沖縄水産高校時代の甲子園出場選手達です。
▽1985年卒
伊敷常利(1984夏)
城間学(1984夏)
奥間勝(1984夏)
宮平博(1984夏)
諸喜田靖(1984夏)
宮城昭人(1984夏)
外間一(1984夏)
城間盛智(1984夏)
名嘉良洋(1984夏)
又吉康和(1984夏)
玉寄一徳(1984夏)
登川孝夫(1984夏)
------------------------------------------------------------------------
▽1986年卒
安里卓(1985夏)
宜保政則(1985夏)
佐久原昇(1985夏)
次呂久正人(1985夏)
喜瀬均(1985夏、1984夏)
松田毅(1985夏)
新垣正明(1985夏)
上原忠(1985夏、1984夏)
金城浩信(1985夏、1984夏)
仲間司(1985夏)
知念謙二(1985夏)
徳嶺一(1985夏)
山城真也(1985夏)
宮城健(1985夏)
▽1987年卒
吉永靖(1986春夏)
前里武(1986春夏)
米須幸司(1986春夏)
平安常勝(1986春夏)
下地民男(1986春夏)
伊良皆貴紀(1986春夏)
垣花幸次郎(1986春夏)
玉城靖(1986春)
根間一成(1986夏)
上原正昭(1986夏)
▽1988年卒
上原晃(1985夏、1986春夏、1987夏)
新垣清太(1986春夏、1987夏)
金城和彦(1986春夏、1987夏)
小浜政寛(1987夏)
小川強(1986春夏、1987夏)
新垣隆雄(1986春夏、1987夏)
上地五十八(1986春夏、1987夏)
知念宏(1986春、1987夏)
山下敏明(1987夏)
崎浜秀治(1987夏)
▽1989年卒
平良幸一(1988夏)
山川光浩(1988夏)
砂川勇人(1987夏、1988夏)
大城康(1987夏、1988夏)
唐間勝吉(1988夏)
上地哲司(1987夏、1988夏)
仲田勝紀(1988夏)
上間孝史(1987夏、1988夏)
伊礼忠彦(1987夏、1988夏)
粟国英樹(1988夏)
浜畑真也(1988夏)
渡口元(1988夏)
東由明(1988夏)
国吉泰徳(1988夏)
▽1990年卒
宮平智(1988夏)
▽1991年卒
神谷善治(1990夏)
中村寿(1990夏)
永田智之(1990夏)
上里直也(1990夏)
新里紹也(1990夏)
城間修(1990夏)
大城剛(1990夏)
中嶋真樹(1990夏)
横峯孝之(1990夏)
前川盛彦(1990夏)
大城賢(1990夏)
浜勝彦(1990夏)
▽1992年卒
大野倫(1990夏、1991夏)
金城秀太郎(1991夏)
具志川和成(1991夏)
吉田宗市(1991夏)
上地宰将(1991夏)
仲程正樹(1990夏、1991夏)
仲村雅仁(1991夏)
屋良景太(1990夏、1991夏)
知念信行(1991夏)
平野信一(1991夏)
野原毅(1991夏)
浜元盛史(1991夏)
川根健一(1991夏)
▽1993年卒
小川勝司(1991夏)
▽1994年卒
玉城進一(1991夏)
▽1996年卒
与儀順也(1995夏)
仲宗根守(1995夏)
大浜英海(1995夏)
知念栄幾(1995夏)
宮平政博(1995夏)
前泊正人(1995夏)
喜瀬正継(1995夏)
具志堅用晋(1995夏)
具志堅哲(1995夏)
仲村渠寿(1995夏)
佐久本卓(1995夏)
上原重信(1995夏)
上原優作(1995夏)
呉屋正人(1995夏)
金城卓麿(1995夏)
▽1997年卒
糸数光正(1996春)
東迎博夫(1996春)
玉城秀一(1996春)
宮城卓(1996春)
池原朝義(1996春)
仲与志晋吾(1996春)
泉朝久(1996春)
上地貴徳(1995夏、1996春)
当銘伸吾(1996春)
喜瀬亮治(1996春)
久志隆嗣(1996春)
古賀雄一(1996春)
名渡山卓哉(1996春)
屋富祖大輔(1996春)
▽1998年卒
新垣道太(1996春)
前原元哉(1996春)
▽1999年卒
宮里康(1998春夏)
玉城秀樹(1998春夏)
宮城泰之(1998春夏)
許田佑二(1998春夏)
仲村渠健太(1998春夏)
稲嶺誉(1998春夏)
米須清貴(1998春夏)
糸数雄樹(1998春夏)
大城直也(1998春夏)
新垣渚(1998春夏)
黒島耕(1998春夏)
宮城太地(1998春)
渡慶次順二(1998春夏)
前川広(1998春夏)
酒井彰博(1998春夏)
知念広尚(1998夏)
▽2000年卒
狩俣大輔(1998春)
前宮辰徳(1998夏)
以上、14期にわたる137名の選手達が甲子園出場を果たしました。
------------------------------------------------------------------------
卒業年度に多少不明な点もございますが、もし間違いにお気付きの方がおられまし
たら、ご指摘の程よろしくお願いいたします。
総勢137名。書き連ねてみて、改めて栽監督の功績の偉大さを知りました。各年代、
本当に素晴らしい選手達を育てあげてきました。
甲子園に出場した各年度とも心に残っていますが、 特筆すべきは、やはり2年連続
準優勝の金字塔です。今でもあの感動と興奮が鮮明に蘇ってきます。
個人的に最も印象に残っている選手は、 連続準優勝時に活躍した屋良景太選手で
す。小柄な体に秘めた 闘志溢れるプレーで魅了したファイターでした。
投手で思い出深いのは屋良選手と同学年の大野倫投手です。 彼もまた、甲子園で
完全燃焼するほどの意地と根性を見せた、ガッツ溢れる名選手でした。
栽野球最盛期において 、2年連続で 中心選手として名を馳せたこの二人の選手は、
栽監督の燃える意志を見事なまでに大甲子園の舞台で表現してくれました。
今もなお 沖縄電力で現役として頑張る屋良選手をはじめとした 、多くの沖水卒野球
人達は、闘将の心を引き継ぎ、今後 新たな沖縄野球史を築き上げて行く事でしょう。
※ 選手の中には故人もおられます。恩師との懐かしい再会をされている事でしょう。
安里卓(1985夏)
宜保政則(1985夏)
佐久原昇(1985夏)
次呂久正人(1985夏)
喜瀬均(1985夏、1984夏)
松田毅(1985夏)
新垣正明(1985夏)
上原忠(1985夏、1984夏)
金城浩信(1985夏、1984夏)
仲間司(1985夏)
知念謙二(1985夏)
徳嶺一(1985夏)
山城真也(1985夏)
宮城健(1985夏)
▽1987年卒
吉永靖(1986春夏)
前里武(1986春夏)
米須幸司(1986春夏)
平安常勝(1986春夏)
下地民男(1986春夏)
伊良皆貴紀(1986春夏)
垣花幸次郎(1986春夏)
玉城靖(1986春)
根間一成(1986夏)
上原正昭(1986夏)
▽1988年卒
上原晃(1985夏、1986春夏、1987夏)
新垣清太(1986春夏、1987夏)
金城和彦(1986春夏、1987夏)
小浜政寛(1987夏)
小川強(1986春夏、1987夏)
新垣隆雄(1986春夏、1987夏)
上地五十八(1986春夏、1987夏)
知念宏(1986春、1987夏)
山下敏明(1987夏)
崎浜秀治(1987夏)
▽1989年卒
平良幸一(1988夏)
山川光浩(1988夏)
砂川勇人(1987夏、1988夏)
大城康(1987夏、1988夏)
唐間勝吉(1988夏)
上地哲司(1987夏、1988夏)
仲田勝紀(1988夏)
上間孝史(1987夏、1988夏)
伊礼忠彦(1987夏、1988夏)
粟国英樹(1988夏)
浜畑真也(1988夏)
渡口元(1988夏)
東由明(1988夏)
国吉泰徳(1988夏)
▽1990年卒
宮平智(1988夏)
▽1991年卒
神谷善治(1990夏)
中村寿(1990夏)
永田智之(1990夏)
上里直也(1990夏)
新里紹也(1990夏)
城間修(1990夏)
大城剛(1990夏)
中嶋真樹(1990夏)
横峯孝之(1990夏)
前川盛彦(1990夏)
大城賢(1990夏)
浜勝彦(1990夏)
▽1992年卒
大野倫(1990夏、1991夏)
金城秀太郎(1991夏)
具志川和成(1991夏)
吉田宗市(1991夏)
上地宰将(1991夏)
仲程正樹(1990夏、1991夏)
仲村雅仁(1991夏)
屋良景太(1990夏、1991夏)
知念信行(1991夏)
平野信一(1991夏)
野原毅(1991夏)
浜元盛史(1991夏)
川根健一(1991夏)
▽1993年卒
小川勝司(1991夏)
▽1994年卒
玉城進一(1991夏)
▽1996年卒
与儀順也(1995夏)
仲宗根守(1995夏)
大浜英海(1995夏)
知念栄幾(1995夏)
宮平政博(1995夏)
前泊正人(1995夏)
喜瀬正継(1995夏)
具志堅用晋(1995夏)
具志堅哲(1995夏)
仲村渠寿(1995夏)
佐久本卓(1995夏)
上原重信(1995夏)
上原優作(1995夏)
呉屋正人(1995夏)
金城卓麿(1995夏)
▽1997年卒
糸数光正(1996春)
東迎博夫(1996春)
玉城秀一(1996春)
宮城卓(1996春)
池原朝義(1996春)
仲与志晋吾(1996春)
泉朝久(1996春)
上地貴徳(1995夏、1996春)
当銘伸吾(1996春)
喜瀬亮治(1996春)
久志隆嗣(1996春)
古賀雄一(1996春)
名渡山卓哉(1996春)
屋富祖大輔(1996春)
▽1998年卒
新垣道太(1996春)
前原元哉(1996春)
▽1999年卒
宮里康(1998春夏)
玉城秀樹(1998春夏)
宮城泰之(1998春夏)
許田佑二(1998春夏)
仲村渠健太(1998春夏)
稲嶺誉(1998春夏)
米須清貴(1998春夏)
糸数雄樹(1998春夏)
大城直也(1998春夏)
新垣渚(1998春夏)
黒島耕(1998春夏)
宮城太地(1998春)
渡慶次順二(1998春夏)
前川広(1998春夏)
酒井彰博(1998春夏)
知念広尚(1998夏)
▽2000年卒
狩俣大輔(1998春)
前宮辰徳(1998夏)
以上、14期にわたる137名の選手達が甲子園出場を果たしました。
------------------------------------------------------------------------
卒業年度に多少不明な点もございますが、もし間違いにお気付きの方がおられまし
たら、ご指摘の程よろしくお願いいたします。
総勢137名。書き連ねてみて、改めて栽監督の功績の偉大さを知りました。各年代、
本当に素晴らしい選手達を育てあげてきました。
甲子園に出場した各年度とも心に残っていますが、 特筆すべきは、やはり2年連続
準優勝の金字塔です。今でもあの感動と興奮が鮮明に蘇ってきます。
個人的に最も印象に残っている選手は、 連続準優勝時に活躍した屋良景太選手で
す。小柄な体に秘めた 闘志溢れるプレーで魅了したファイターでした。
投手で思い出深いのは屋良選手と同学年の大野倫投手です。 彼もまた、甲子園で
完全燃焼するほどの意地と根性を見せた、ガッツ溢れる名選手でした。
栽野球最盛期において 、2年連続で 中心選手として名を馳せたこの二人の選手は、
栽監督の燃える意志を見事なまでに大甲子園の舞台で表現してくれました。
今もなお 沖縄電力で現役として頑張る屋良選手をはじめとした 、多くの沖水卒野球
人達は、闘将の心を引き継ぎ、今後 新たな沖縄野球史を築き上げて行く事でしょう。
※ 選手の中には故人もおられます。恩師との懐かしい再会をされている事でしょう。
Posted by neogaia at 21:54
│名将・栽弘義
この記事へのコメント
はじめまして。
栽監督訃報、本当に残念。大変ショックでした。
自分も高校野球ファンです。決して野球少年では
ありませんでしたが、栽監督が豊見城高校で甲子園出場した
ときに見たのが初めてでそれ以来、高校野球ファンに
なりました。石嶺選手が出ていたのをうっすら覚えています。
甲子園でホームランを打ったような気がしますが。。。
1990年の夏の大会で沖縄水産が決勝まで行った時が
一番、優勝に近かったような気がしています。1対0。。
とっても惜しかった。
9回最後の打席(打者は確か横峯選手?)でレフト線の
打球がのが抜けていれば、
あるいはそのままスタンドに行っていたら優勝していたのに。。
なんて今でもあの瞬間を鮮明に覚えています。
ところで個人的に気になるのはその大会のメンバーにいた
本土出身(野球留学?)の永田選手、横峯選手って、その後
どうしているんでしょうかね?永田選手は大学進学したようですね。
横峯選手はどうしたのかな?
永田選手は、準優勝後のインタビューで
「ぼくにとって、このメンバーは一番の友達です。」みたいなことを
言っていたのを覚えています。本土から沖縄に野球をしにきて
一緒に頑張っていた彼らに対して、なんとなく好感をもっていました。
栽監督訃報、本当に残念。大変ショックでした。
自分も高校野球ファンです。決して野球少年では
ありませんでしたが、栽監督が豊見城高校で甲子園出場した
ときに見たのが初めてでそれ以来、高校野球ファンに
なりました。石嶺選手が出ていたのをうっすら覚えています。
甲子園でホームランを打ったような気がしますが。。。
1990年の夏の大会で沖縄水産が決勝まで行った時が
一番、優勝に近かったような気がしています。1対0。。
とっても惜しかった。
9回最後の打席(打者は確か横峯選手?)でレフト線の
打球がのが抜けていれば、
あるいはそのままスタンドに行っていたら優勝していたのに。。
なんて今でもあの瞬間を鮮明に覚えています。
ところで個人的に気になるのはその大会のメンバーにいた
本土出身(野球留学?)の永田選手、横峯選手って、その後
どうしているんでしょうかね?永田選手は大学進学したようですね。
横峯選手はどうしたのかな?
永田選手は、準優勝後のインタビューで
「ぼくにとって、このメンバーは一番の友達です。」みたいなことを
言っていたのを覚えています。本土から沖縄に野球をしにきて
一緒に頑張っていた彼らに対して、なんとなく好感をもっていました。
Posted by リバーサイド at 2007年05月16日 11:03
こんばんは。管理人さんが、歴代の甲子園出場の沖水メンバーを掲載してくださいましたが、管理人さんもおっしゃっているように、この中に既に他界された方がいますね。
1980年代に卒業されたその方は、自動車事故で新聞にも載っていたのを覚えています。その記事を目にしたときは驚きましたが、もうあれからだいぶたつんですね。
今ごろは、栽監督と当時のことを話し合って盛り上がってるんじゃないでしょうか。
1980年代に卒業されたその方は、自動車事故で新聞にも載っていたのを覚えています。その記事を目にしたときは驚きましたが、もうあれからだいぶたつんですね。
今ごろは、栽監督と当時のことを話し合って盛り上がってるんじゃないでしょうか。
Posted by M・K at 2007年05月16日 23:29
>リバーサイドさん
はじめまして。
栽監督の訃報は本当に残念で、多くの人にショックを与えました。
私もリバーサイドさんと同じように、豊見城の甲子園が原点です。
石嶺選手は最後の夏の最後の試合でホームランを打ちました。
岡山東商戦でしたが、あの夏石嶺選手は右手小指を負傷していた
と思います。にも関わらずレフトラッキーゾーンへ技ありの本塁打を
放ちました。当時からセンスがずば抜けており、格が違いました。
1990年決勝の横峯選手の打球には、沖縄の時が一瞬止まりましたね。
今となっては最高に素晴らしい思い出の試合です。
横峯選手は高校卒業後どうしたのかわかりません。
永田選手は九州共立大へ進学した事までは知っていますが、
その後どうなったのかわかりません。
本土から沖水へ野球留学でやってきたこの二人の活躍は、
とてもさわやかな印象を与え、沖縄県民の皆が嬉しく思ったでしょう。
二人にとって沖縄の地が、今でも青春の素晴らしい思い出の地で
ある事を願ってやみません。
>M・Kさん
こんにちは。
M・Kさんのおっしゃるように、交通事故でしたね。
私もよくおぼえています。
結構珍しい名前だったので、もしやと思ったのですが・・・
確か北部からの帰りで、国道58号線でしたね。
あれからだいぶ経つのですが、今頃、天国で栽監督と昔話に花を
咲かせておられる事でしょう。
はじめまして。
栽監督の訃報は本当に残念で、多くの人にショックを与えました。
私もリバーサイドさんと同じように、豊見城の甲子園が原点です。
石嶺選手は最後の夏の最後の試合でホームランを打ちました。
岡山東商戦でしたが、あの夏石嶺選手は右手小指を負傷していた
と思います。にも関わらずレフトラッキーゾーンへ技ありの本塁打を
放ちました。当時からセンスがずば抜けており、格が違いました。
1990年決勝の横峯選手の打球には、沖縄の時が一瞬止まりましたね。
今となっては最高に素晴らしい思い出の試合です。
横峯選手は高校卒業後どうしたのかわかりません。
永田選手は九州共立大へ進学した事までは知っていますが、
その後どうなったのかわかりません。
本土から沖水へ野球留学でやってきたこの二人の活躍は、
とてもさわやかな印象を与え、沖縄県民の皆が嬉しく思ったでしょう。
二人にとって沖縄の地が、今でも青春の素晴らしい思い出の地で
ある事を願ってやみません。
>M・Kさん
こんにちは。
M・Kさんのおっしゃるように、交通事故でしたね。
私もよくおぼえています。
結構珍しい名前だったので、もしやと思ったのですが・・・
確か北部からの帰りで、国道58号線でしたね。
あれからだいぶ経つのですが、今頃、天国で栽監督と昔話に花を
咲かせておられる事でしょう。
Posted by neogaia at 2007年05月17日 12:41
こんにちは
栽監督の教え子も
みんな、高校卒業後もきっとどこかで
野球を続けいることでしょうね。
赤嶺賢勇さんは山形にいるようですが、
近況はどうでしょうね?告別式にきていたのかな?
顔みたかったな~!
沖縄電力のホームページから
公式野球部の選手をみることができるように
なっていますね。
そこを見てみると、栽監督の教え子(沖水OB)の
今の写真が見れますね。
栽監督の教え子も
みんな、高校卒業後もきっとどこかで
野球を続けいることでしょうね。
赤嶺賢勇さんは山形にいるようですが、
近況はどうでしょうね?告別式にきていたのかな?
顔みたかったな~!
沖縄電力のホームページから
公式野球部の選手をみることができるように
なっていますね。
そこを見てみると、栽監督の教え子(沖水OB)の
今の写真が見れますね。
Posted by リバーサイド at 2007年05月17日 15:09
>リバーサイドさん
赤嶺さん、懐かしいですね。
私が赤嶺さんを初めて見たのは、赤嶺さんが1年生のころです。
夏の県大会で1年生ながらマウンドを踏んでいたのをかすかに覚えています。そのころ、興南にいた前泊哲明さん(元大洋)と投げ合い、1年下の赤嶺さんが投げ勝ったような記憶があります。
ちなみに、赤嶺さんは告別式に来られなかったようです。
赤嶺さん、懐かしいですね。
私が赤嶺さんを初めて見たのは、赤嶺さんが1年生のころです。
夏の県大会で1年生ながらマウンドを踏んでいたのをかすかに覚えています。そのころ、興南にいた前泊哲明さん(元大洋)と投げ合い、1年下の赤嶺さんが投げ勝ったような記憶があります。
ちなみに、赤嶺さんは告別式に来られなかったようです。
Posted by M・K at 2007年05月18日 01:54
失礼しました。赤嶺さんと前泊さんは投げ合っていませんね。
勘違いでした。
勘違いでした。
Posted by at 2007年05月18日 02:19
>リバーサイドさん
赤嶺賢勇さんの近況は、確かに気になりますね。告別式に来ていたのかも
気になります。
私にとって、赤嶺投手は未だに憧れの的です。また、お顔を見てみたいもの
ですね。
沖縄電力野球部のホームページが新しく出来てますね。私も拝見しました。
頑張っている栽監督の教え子達を見ると嬉しくなってきます。
> M・Kさん
私が赤嶺さんの投球を初めて見たのは、50年のセンバツが終わった後で
した。ドキドキしながら豊見城高校の練習を見に行きました。
それと実際見たわけではありませんが、私の手元の資料では、赤嶺さんと
前泊さんは投げ合っています。但し、昭和49年の秋季大会準々決勝です。
豊見城が興南に7-6で勝っていて、前泊さんは完投。赤嶺さんは先発で途
中、下地投手に交代しています。 ですから 、M・Kさんのかすかな記憶は、
当たっています。
赤嶺投手の1期上も好投手の多い世代でしたね。興南・前泊投手や石川・
糸数投手、読谷・知花投手らがいました。
赤嶺賢勇さんの近況は、確かに気になりますね。告別式に来ていたのかも
気になります。
私にとって、赤嶺投手は未だに憧れの的です。また、お顔を見てみたいもの
ですね。
沖縄電力野球部のホームページが新しく出来てますね。私も拝見しました。
頑張っている栽監督の教え子達を見ると嬉しくなってきます。
> M・Kさん
私が赤嶺さんの投球を初めて見たのは、50年のセンバツが終わった後で
した。ドキドキしながら豊見城高校の練習を見に行きました。
それと実際見たわけではありませんが、私の手元の資料では、赤嶺さんと
前泊さんは投げ合っています。但し、昭和49年の秋季大会準々決勝です。
豊見城が興南に7-6で勝っていて、前泊さんは完投。赤嶺さんは先発で途
中、下地投手に交代しています。 ですから 、M・Kさんのかすかな記憶は、
当たっています。
赤嶺投手の1期上も好投手の多い世代でしたね。興南・前泊投手や石川・
糸数投手、読谷・知花投手らがいました。
Posted by neogaia at 2007年05月21日 00:23
>neogaiaさん
そうでしたね。赤嶺さんと前泊さんは投げ合ってましたね。
何しろ33年前のことなので記憶があいまいで。
ここで赤嶺さんの時代の公式戦全記録が見られます。
http://www.interq.or.jp/rabbit/akir/tomiakak.htm
ところで、私は1973年の5月に行われた若夏国体(本土復帰記念特別国体)を奥武山球場で見たのですが、neogaiaさんは、その国体はご覧になられましたでしょうか? 若夏国体には、当時、怪物と呼ばれた江川投手(作新学院)も来て、盛り上がりましたが、初戦で岩国に0-1で敗れてしまいました。
沖縄からは、その年の選抜に出場した前原と豊見城が出場しましが、前原は星稜(石川)に0-5で敗れ、豊見城も中京商(岐阜)に3-4で敗れています。前原の監督は高江洲登さんで、豊見城の監督は栽弘義さんでした
(当時のパンフレットより)。私の記憶では沖縄の高校野球はこの頃までは非常に弱く、1972年の名護、73年の前原とも春夏連続出場を果たしながら両校とも初戦敗退を喫しております。特に、前原は、73年の選抜で函館有斗(北海道)に0-5、夏の選手権では川越工(埼玉)に0-7で敗れ、そして5月の若夏国体でも星稜に0-5で敗れ、いずれの大会も完封負けでした。
この頃までは、初戦敗退が当たり前といわれた時代で、私が、沖縄の高校野球が強くなってきたと思ったのは1975年の選抜に出た豊見城旋風のときでした。習志野戦、東海大相模戦はまだはっきりと覚えています。
あと、1974年に「第1回招待野球試合」(県高野連主催)が奥武山球場で開催され、招待されたのは、その年の選抜で優勝した報徳学園(兵庫)と、この招待試合の後、夏の選手権で優勝することになる銚子商(千葉)の2校でした。
私は、奥武山球場の内野スタンドで観戦しましたが、報徳は前泊投手のいた興南と対戦し、9-1で興南を下し、ダブルヘッダーとなった第2試合では首里を3-0で破りました。あの当時、全国制覇したチームと対戦し、3-0というスコアで試合ができたというのは大健闘といえるでしょう。そのときの首里のバッテリーは砂川-下地でした。
それから1週間後か2週間後に沖縄にやって来た銚子商には2年生ながら、シュアなバッティングをする篠塚選手(現巨人コーチ)がいたのを覚えています。銚子商は、この年の春の沖縄県大会優勝校の読谷と対戦し、スコアは忘れましたが、小差で読谷を下しています。ちなみに、この試合は琉球放送のテレビで実況中継され、私はテレビを見ていました。読谷のエースは知花投手で、以前、沖水でもコーチをなさっていたかと思います。
1970年代前半の私の高校野球の記憶はこんなところです。
また、当時の週刊ベースボールの「甲子園大会総決算号」などは今でも大切に保存しております。
そうでしたね。赤嶺さんと前泊さんは投げ合ってましたね。
何しろ33年前のことなので記憶があいまいで。
ここで赤嶺さんの時代の公式戦全記録が見られます。
http://www.interq.or.jp/rabbit/akir/tomiakak.htm
ところで、私は1973年の5月に行われた若夏国体(本土復帰記念特別国体)を奥武山球場で見たのですが、neogaiaさんは、その国体はご覧になられましたでしょうか? 若夏国体には、当時、怪物と呼ばれた江川投手(作新学院)も来て、盛り上がりましたが、初戦で岩国に0-1で敗れてしまいました。
沖縄からは、その年の選抜に出場した前原と豊見城が出場しましが、前原は星稜(石川)に0-5で敗れ、豊見城も中京商(岐阜)に3-4で敗れています。前原の監督は高江洲登さんで、豊見城の監督は栽弘義さんでした
(当時のパンフレットより)。私の記憶では沖縄の高校野球はこの頃までは非常に弱く、1972年の名護、73年の前原とも春夏連続出場を果たしながら両校とも初戦敗退を喫しております。特に、前原は、73年の選抜で函館有斗(北海道)に0-5、夏の選手権では川越工(埼玉)に0-7で敗れ、そして5月の若夏国体でも星稜に0-5で敗れ、いずれの大会も完封負けでした。
この頃までは、初戦敗退が当たり前といわれた時代で、私が、沖縄の高校野球が強くなってきたと思ったのは1975年の選抜に出た豊見城旋風のときでした。習志野戦、東海大相模戦はまだはっきりと覚えています。
あと、1974年に「第1回招待野球試合」(県高野連主催)が奥武山球場で開催され、招待されたのは、その年の選抜で優勝した報徳学園(兵庫)と、この招待試合の後、夏の選手権で優勝することになる銚子商(千葉)の2校でした。
私は、奥武山球場の内野スタンドで観戦しましたが、報徳は前泊投手のいた興南と対戦し、9-1で興南を下し、ダブルヘッダーとなった第2試合では首里を3-0で破りました。あの当時、全国制覇したチームと対戦し、3-0というスコアで試合ができたというのは大健闘といえるでしょう。そのときの首里のバッテリーは砂川-下地でした。
それから1週間後か2週間後に沖縄にやって来た銚子商には2年生ながら、シュアなバッティングをする篠塚選手(現巨人コーチ)がいたのを覚えています。銚子商は、この年の春の沖縄県大会優勝校の読谷と対戦し、スコアは忘れましたが、小差で読谷を下しています。ちなみに、この試合は琉球放送のテレビで実況中継され、私はテレビを見ていました。読谷のエースは知花投手で、以前、沖水でもコーチをなさっていたかと思います。
1970年代前半の私の高校野球の記憶はこんなところです。
また、当時の週刊ベースボールの「甲子園大会総決算号」などは今でも大切に保存しております。
Posted by M・K at 2007年05月25日 12:29
>M・Kさん
いつもコメント頂き、感謝いたします。
M・Kさん、実はご紹介されたページは私のページです。私は7.8年ほど前
に「OKINAWAN BASEBALL STADIUM」という沖縄野球サイトを運営
していました。皆からは「オキスタ」と呼ばれていました。上記・豊見城のペ
ージの一番下にハンドルネームが書かれていますが「neogaia」となって
います。あのページは7年程前に書いたものですが、まだネット上に残って
いるとは思っても見ませんでした。オキスタは2年ほど運営して閉鎖してしま
いトップページなど主要なページを消したつもりだったのですが、今、残って
いるページを見て逆に嬉しく思いました。ちなみに現在のブログ「ネオ・オキ
スタ」は、”新しいオキスタ”の意味で付けたタイトルです。
M・Kさんの野球の知識は凄いです。コメントには、私の知らない事がたくさ
ん書かれています。私が初めて高校野球に魅かれたのは、1975年センバ
ツの「豊見城vs習志野」です。当時小学生だったのですが、それまで野球
はプロ野球が好きで、高校野球とか甲子園にはあまり関心ありませんでし
た。ただ父が高校野球好きだったので、よく一緒にテレビ観戦はしてました。
作新学院は江川が有名だったので若夏国体の時沖縄に来てた事は覚えて
いますが、翌年に報徳学園や銚子商が来てた事は知りませんでした。
あの豊見城初登場のセンバツ時はちょうど春休みで、父と弟と3人でテレビ
観戦しました。父がとても熱狂するので、その時もただ一緒に観ていたので
すが、あの一試合で私は打ちのめされました。次の日大山形戦はたまたま
登校日で、急いで家に帰ってテレビの前に座りました。当時の日大山形は、
100メートル11秒台の選手が数名いて機動力の高いチームだったと記憶
しています。そして東海大相模戦・・・私の中では伝説の試合です。
M・Kさんの招待野球等の話を読んで、色々と興味深い事がありました。星稜
は1976年の夏に甲子園出場してから強くなったと思っていたのですが、若
夏国体の頃から既に強かったんですね。監督はやはり山下さんだったので
しょうか?
また招待野球は1974年が第1回だったんですね。
私が初めて招待野球を見たのは1976年の東洋大姫路戦です。その年の
センバツでベスト4に進んだ東洋大姫路は非常に好きなチームだったので、
とても喜びました。甲子園のヒーロー弓岡選手らを生で見れるという事でワク
ワクして奥武山まで行ったら、もの凄い人でした。外野の芝生席までぎっしり
で、塀越しに見る人もたくさんいました。今にして思えば当時のウチナーンチ
ュは今よりかなり高校野球好きだったのかもしれません。
東洋大姫路の相手はもちろん豊見城。姫路はセンバツで活躍したエースの
小南が投げなかったのが残念でしたが、その試合で完投した2年生左腕の
松本投手が、まさか翌年の夏甲子園優勝投手になるとは思っても見ません
でした。試合は赤嶺・松本の見事な投手戦で、0-0の引き分けだったと思い
ます。次の日は春季沖縄大会で優勝した普天間高校が出ましたが、正直あ
まり覚えていません。ただ普天間の投手は、小柄な好投手の上原投手だっ
たのを覚えています。
私が興味を持ち始めた1975年は、沖縄県内での高校野球も熱かったと思
います。豊見城に触発されたかのように、一気に沖縄全体のレベルが上がっ
たように感じました。知らなかったのですが、当時の読谷の知花投手は沖水
でコーチなさっていたんですね。
当時の週刊ベースボールの「甲子園大会総決算号」ですが、私も1975年
以降ずっと買ってました。あとアサヒグラフも。週刊ベースボール社の夏の
大会前の雑誌は分厚くて全国の高校球児の名前が全て載っていましたね。
センバツの雑誌は、大会前展望号も大会特集号も上等の紙質で綺麗な装丁
でした。ただ残念な事に小学生の頃から集めてたこれらの雑誌やスクラップ
記事は、私が社会人になって本土で働いていた頃に、既に実家で処分されて
いました。野球に全く関心のない母は、それらをゴミだと思ったようです。
ですから今でも大切に保存しているM・Kさんが羨ましいです。それらは今後
一層価値の上がる、歴史的な宝物だと思います。
こういう話題になるとついつい長くなってしまいます。M・Kさん、これからも当
時の話題をたくさん聞かせて下さい。楽しみに待ってます。
今回のコメント、改めましてありがとうございました。
いつもコメント頂き、感謝いたします。
M・Kさん、実はご紹介されたページは私のページです。私は7.8年ほど前
に「OKINAWAN BASEBALL STADIUM」という沖縄野球サイトを運営
していました。皆からは「オキスタ」と呼ばれていました。上記・豊見城のペ
ージの一番下にハンドルネームが書かれていますが「neogaia」となって
います。あのページは7年程前に書いたものですが、まだネット上に残って
いるとは思っても見ませんでした。オキスタは2年ほど運営して閉鎖してしま
いトップページなど主要なページを消したつもりだったのですが、今、残って
いるページを見て逆に嬉しく思いました。ちなみに現在のブログ「ネオ・オキ
スタ」は、”新しいオキスタ”の意味で付けたタイトルです。
M・Kさんの野球の知識は凄いです。コメントには、私の知らない事がたくさ
ん書かれています。私が初めて高校野球に魅かれたのは、1975年センバ
ツの「豊見城vs習志野」です。当時小学生だったのですが、それまで野球
はプロ野球が好きで、高校野球とか甲子園にはあまり関心ありませんでし
た。ただ父が高校野球好きだったので、よく一緒にテレビ観戦はしてました。
作新学院は江川が有名だったので若夏国体の時沖縄に来てた事は覚えて
いますが、翌年に報徳学園や銚子商が来てた事は知りませんでした。
あの豊見城初登場のセンバツ時はちょうど春休みで、父と弟と3人でテレビ
観戦しました。父がとても熱狂するので、その時もただ一緒に観ていたので
すが、あの一試合で私は打ちのめされました。次の日大山形戦はたまたま
登校日で、急いで家に帰ってテレビの前に座りました。当時の日大山形は、
100メートル11秒台の選手が数名いて機動力の高いチームだったと記憶
しています。そして東海大相模戦・・・私の中では伝説の試合です。
M・Kさんの招待野球等の話を読んで、色々と興味深い事がありました。星稜
は1976年の夏に甲子園出場してから強くなったと思っていたのですが、若
夏国体の頃から既に強かったんですね。監督はやはり山下さんだったので
しょうか?
また招待野球は1974年が第1回だったんですね。
私が初めて招待野球を見たのは1976年の東洋大姫路戦です。その年の
センバツでベスト4に進んだ東洋大姫路は非常に好きなチームだったので、
とても喜びました。甲子園のヒーロー弓岡選手らを生で見れるという事でワク
ワクして奥武山まで行ったら、もの凄い人でした。外野の芝生席までぎっしり
で、塀越しに見る人もたくさんいました。今にして思えば当時のウチナーンチ
ュは今よりかなり高校野球好きだったのかもしれません。
東洋大姫路の相手はもちろん豊見城。姫路はセンバツで活躍したエースの
小南が投げなかったのが残念でしたが、その試合で完投した2年生左腕の
松本投手が、まさか翌年の夏甲子園優勝投手になるとは思っても見ません
でした。試合は赤嶺・松本の見事な投手戦で、0-0の引き分けだったと思い
ます。次の日は春季沖縄大会で優勝した普天間高校が出ましたが、正直あ
まり覚えていません。ただ普天間の投手は、小柄な好投手の上原投手だっ
たのを覚えています。
私が興味を持ち始めた1975年は、沖縄県内での高校野球も熱かったと思
います。豊見城に触発されたかのように、一気に沖縄全体のレベルが上がっ
たように感じました。知らなかったのですが、当時の読谷の知花投手は沖水
でコーチなさっていたんですね。
当時の週刊ベースボールの「甲子園大会総決算号」ですが、私も1975年
以降ずっと買ってました。あとアサヒグラフも。週刊ベースボール社の夏の
大会前の雑誌は分厚くて全国の高校球児の名前が全て載っていましたね。
センバツの雑誌は、大会前展望号も大会特集号も上等の紙質で綺麗な装丁
でした。ただ残念な事に小学生の頃から集めてたこれらの雑誌やスクラップ
記事は、私が社会人になって本土で働いていた頃に、既に実家で処分されて
いました。野球に全く関心のない母は、それらをゴミだと思ったようです。
ですから今でも大切に保存しているM・Kさんが羨ましいです。それらは今後
一層価値の上がる、歴史的な宝物だと思います。
こういう話題になるとついつい長くなってしまいます。M・Kさん、これからも当
時の話題をたくさん聞かせて下さい。楽しみに待ってます。
今回のコメント、改めましてありがとうございました。
Posted by neogaia at 2007年05月25日 23:08
>neogajaさん
こんばんは。
やはりあのページはneogajaさんが作られたものでしたか。
あまりに詳しくスコアなどが載っているので、もしかしてと思ったのですが。
私はあのページを最初見たときびっくりしましたよ。こんなに詳しく豊見城時代のスコアがネットで見れるなんて、ほんとに驚きました。
なので、私はそのページをPCの「お気に入り」に入れて、時々見ています。
石嶺さんのところが消去されてたのが残念ですが、赤嶺さんのページはぜひ残しておいてほしいと思います。
さて招待野球のシーズンになりましたが、そういえば、私の招待野球の思い出といえば、もうひとつあります。
それは1976年のことですが、当時、私は東京に引っ越してきたころで、ある日ふとスポーツ新聞を広げてみたら、何と神奈川県高野連の招待で、沖縄から豊見城が来ると書いてあるじゃないですか。
私は、日曜日だったので、片道2時間近くかかりましたが、保土ヶ谷球場まで見に行きました。
10時から始まった第一試合は豊見城-東海大相模で、この試合は前年の1975年選抜大会の準々決勝で対戦したということもあり、因縁の試合として注目され、試合前には沖縄の星・赤嶺さんと、甲子園のプリンス・原辰徳選手の二人が三塁側ベンチ前で握手し、多くの報道陣から写真撮影されていました。
そのときの写真は後に、日本スポーツ出版社というところから出た「夏の甲子園大会予選展望号」みたいな雑誌の表紙を飾りました。
残念ながら試合は、エースの赤嶺さんが調子が悪く、東海大相模の強力打線につかまり、1-7で敗れました。
この試合で赤嶺さんは、東海大相模の主砲・津末選手(元日本ハム)に右中間にホームランを打たれたのをはじめ下位打線にも集中打を浴びていたように記憶しています。ただ、原辰徳選手とは相性がいいのかノーヒットに抑え、三振も奪ったのを覚えています。原選手は、赤嶺さんの大きく縦に割れるカーブにまったくタイミングが合っていないようでした。
東海大相模の先発は186センチの本格派右腕・岡部投手(元日本ハム)で、豊見城はその岡部投手の快速球の前にわずか2安打か3安打に抑えられました。
第二試合は豊見城-武相戦で、赤嶺さんはこの試合も先発し、完投しました。
あの当時は今のように複数の投手を使うのではなく、エースが一人で最後まで投げるのが普通だったと思いますが、赤嶺さんはダブルヘッダーの2試合とも投げきりました。この試合は7回まで2-0とリードされた豊見城が8回に逆転し、4-2で武相を破りました。豊見城は勝ったものの、この試合でもヒットは5本か6本しか打てず、かなり苦戦していました。
この日の2試合を見ての感想ですが、1975年のチームと違い、1976年のチームは小柄(平均身長168センチ)で、打線も非力だったように思います。
東海大相模の選手と比較すると、平均身長で7、8センチも違うのでは?と思えるぐらい豊見城の選手は小さく見えました(実際は平均でも168センチまでなかったかもしれません)。
スタンドからも、「沖縄の選手は小さいな~」という声が聞こえ、30年以上たった今も、その声が耳に残っているほどですが、あの当時の沖縄の選手と本土の選手の体格差は歴然としていました。
試合が終わり、マイクロバスで羽田空港に向かう選手たちを大勢のファンが取り囲み、豊見城の選手たちがバスの窓から手を出し、ファンの人たちと握手していたのも印象的で、どの選手もアイドルスター並みにもみくちゃにされていました。前年の豊見城の活躍が大きかったので、神奈川にも豊見城ファンが大勢いたのでしょう。
私もneogajaさんと同様、この時代の高校野球が好きで、当時のことはいろんな資料を引っ張り出しては思い出にふけっております。
また私の経験したことなどを書きますので、これからもよろしくお願いいたします。
こんばんは。
やはりあのページはneogajaさんが作られたものでしたか。
あまりに詳しくスコアなどが載っているので、もしかしてと思ったのですが。
私はあのページを最初見たときびっくりしましたよ。こんなに詳しく豊見城時代のスコアがネットで見れるなんて、ほんとに驚きました。
なので、私はそのページをPCの「お気に入り」に入れて、時々見ています。
石嶺さんのところが消去されてたのが残念ですが、赤嶺さんのページはぜひ残しておいてほしいと思います。
さて招待野球のシーズンになりましたが、そういえば、私の招待野球の思い出といえば、もうひとつあります。
それは1976年のことですが、当時、私は東京に引っ越してきたころで、ある日ふとスポーツ新聞を広げてみたら、何と神奈川県高野連の招待で、沖縄から豊見城が来ると書いてあるじゃないですか。
私は、日曜日だったので、片道2時間近くかかりましたが、保土ヶ谷球場まで見に行きました。
10時から始まった第一試合は豊見城-東海大相模で、この試合は前年の1975年選抜大会の準々決勝で対戦したということもあり、因縁の試合として注目され、試合前には沖縄の星・赤嶺さんと、甲子園のプリンス・原辰徳選手の二人が三塁側ベンチ前で握手し、多くの報道陣から写真撮影されていました。
そのときの写真は後に、日本スポーツ出版社というところから出た「夏の甲子園大会予選展望号」みたいな雑誌の表紙を飾りました。
残念ながら試合は、エースの赤嶺さんが調子が悪く、東海大相模の強力打線につかまり、1-7で敗れました。
この試合で赤嶺さんは、東海大相模の主砲・津末選手(元日本ハム)に右中間にホームランを打たれたのをはじめ下位打線にも集中打を浴びていたように記憶しています。ただ、原辰徳選手とは相性がいいのかノーヒットに抑え、三振も奪ったのを覚えています。原選手は、赤嶺さんの大きく縦に割れるカーブにまったくタイミングが合っていないようでした。
東海大相模の先発は186センチの本格派右腕・岡部投手(元日本ハム)で、豊見城はその岡部投手の快速球の前にわずか2安打か3安打に抑えられました。
第二試合は豊見城-武相戦で、赤嶺さんはこの試合も先発し、完投しました。
あの当時は今のように複数の投手を使うのではなく、エースが一人で最後まで投げるのが普通だったと思いますが、赤嶺さんはダブルヘッダーの2試合とも投げきりました。この試合は7回まで2-0とリードされた豊見城が8回に逆転し、4-2で武相を破りました。豊見城は勝ったものの、この試合でもヒットは5本か6本しか打てず、かなり苦戦していました。
この日の2試合を見ての感想ですが、1975年のチームと違い、1976年のチームは小柄(平均身長168センチ)で、打線も非力だったように思います。
東海大相模の選手と比較すると、平均身長で7、8センチも違うのでは?と思えるぐらい豊見城の選手は小さく見えました(実際は平均でも168センチまでなかったかもしれません)。
スタンドからも、「沖縄の選手は小さいな~」という声が聞こえ、30年以上たった今も、その声が耳に残っているほどですが、あの当時の沖縄の選手と本土の選手の体格差は歴然としていました。
試合が終わり、マイクロバスで羽田空港に向かう選手たちを大勢のファンが取り囲み、豊見城の選手たちがバスの窓から手を出し、ファンの人たちと握手していたのも印象的で、どの選手もアイドルスター並みにもみくちゃにされていました。前年の豊見城の活躍が大きかったので、神奈川にも豊見城ファンが大勢いたのでしょう。
私もneogajaさんと同様、この時代の高校野球が好きで、当時のことはいろんな資料を引っ張り出しては思い出にふけっております。
また私の経験したことなどを書きますので、これからもよろしくお願いいたします。
Posted by M・K at 2007年05月26日 01:29
>M・Kさん
こんにちは。またまた凄い内容のコメントに、大変感激しています。
やはりM・Kさんは素晴らしいです!
1976年の神奈川招待野球をご覧になられたとは、かなり貴重ですね。
羨ましいです。あの招待野球は、沖縄の地元新聞でも載っていたので良く覚
えています。豊見城が東海大相模に完敗して、しかも赤嶺投手が打たれたと
いう事で、とてもがっかりしました。
ただ当時の神奈川春季大会の優勝校は武相高校だったらしく、新聞では神
奈川優勝校を破ったという事で讃えていました。もちろん私達沖縄野球小僧
は、真の実力校は東海大相模だと思っていました。
しかし赤嶺投手、ダブルヘッダーで連続完投とは凄いですね。いくらエース
が1人で投げるのが当時の主流だった時代とは言え。根本的にタフな筋肉
の持ち主だったのでしょうか。
あの試合で赤嶺投手は津末選手にホームランを打たれたのですね。
前年のセンバツでも土壇場で津末選手に打たれましたし、返り討ちにあった
格好ですね。当時の津末選手は本当に怖い打者で、ファンの間では原辰徳
選手より上だと言われていましたよね。センバツでもそうでしたが、やはり原
選手は赤嶺投手に相性が悪かったのですね。
投げた投手は岡部投手ですか。岡部投手はプロでこそ活躍しましたが、高
校時代はほとんど無名に近かったと思います。同学年の村中投手が前年度
から不動のエースでしたね。
1976年の豊見城は確かに非力なチームでした。前年のチームが力強かっ
ただけに見劣りしました。しかし最期の夏はとても強い野球を見せて甲子園
を沸かせましたね。当時のチームの主力メンバーには、私の中学の野球部
のずっと上の先輩がいて憧れてました。大人になってその方と酒を飲んで
語り合ったり、一緒に草野球の練習をしたりして感動したことがありました。
それにしても当時の原・赤嶺人気は凄まじかったんですね。赤嶺投手はもち
ろん沖縄の星で地元の大スターでしたが、本土の、しかも野球王国神奈川県
でもアイドル扱いだったとは驚きです。おまけに赤嶺投手以外の選手に対し
てもそうだったとは。
1976年豊見城の平均身長は確かに雑誌等でも168センチとなってました。
それに対して東海大相模は高校野球界屈指の大型チームでしたから、なお
さら小さく見えたでしょうね。
あの頃、豊見城と東海大相模はなにかと因縁がありましたね。赤嶺・原の最
期の夏も、直接対決こそしませんでしたが、東海大相模を破った小山高校を
次の試合で豊見城が破りましたからね。間接的なリベンジではありましたが、
とても嬉しかったです。
しかし、その1976年の招待野球での写真が、日本スポーツ出版社の「夏の
甲子園大会予選展望号」みたいな雑誌の表紙を飾っていた事を知ってるな
んて、M・Kさんは本当に通です。
今日は、報徳学園を招いての招待野球がありましたが、沖縄兵庫友愛35周
年だとかで、パンフレットの内容がいつもより細かくなってました。過去の招待
野球の全試合結果まで載っていました。
(ちなみに1976年の豊見城vs東洋大姫路は、1-1でした。私は記憶違いで
ずっと0-0だと思っていました。)
あと昔のページの事を良く言ってくれてありがとうございます。仰るようにあの
ページは残しておこうと思います。そして、いつかまたあのような野球サイトを
復活させたいと思っています。
M・Kさんのコメントの話題は私の琴線に触れます。あの当時の話題を聞く
と、本当に嬉しく気持ちになります。改めて感謝申し上げます。
また楽しい話題を宜しくお願い致します。それでは。
こんにちは。またまた凄い内容のコメントに、大変感激しています。
やはりM・Kさんは素晴らしいです!
1976年の神奈川招待野球をご覧になられたとは、かなり貴重ですね。
羨ましいです。あの招待野球は、沖縄の地元新聞でも載っていたので良く覚
えています。豊見城が東海大相模に完敗して、しかも赤嶺投手が打たれたと
いう事で、とてもがっかりしました。
ただ当時の神奈川春季大会の優勝校は武相高校だったらしく、新聞では神
奈川優勝校を破ったという事で讃えていました。もちろん私達沖縄野球小僧
は、真の実力校は東海大相模だと思っていました。
しかし赤嶺投手、ダブルヘッダーで連続完投とは凄いですね。いくらエース
が1人で投げるのが当時の主流だった時代とは言え。根本的にタフな筋肉
の持ち主だったのでしょうか。
あの試合で赤嶺投手は津末選手にホームランを打たれたのですね。
前年のセンバツでも土壇場で津末選手に打たれましたし、返り討ちにあった
格好ですね。当時の津末選手は本当に怖い打者で、ファンの間では原辰徳
選手より上だと言われていましたよね。センバツでもそうでしたが、やはり原
選手は赤嶺投手に相性が悪かったのですね。
投げた投手は岡部投手ですか。岡部投手はプロでこそ活躍しましたが、高
校時代はほとんど無名に近かったと思います。同学年の村中投手が前年度
から不動のエースでしたね。
1976年の豊見城は確かに非力なチームでした。前年のチームが力強かっ
ただけに見劣りしました。しかし最期の夏はとても強い野球を見せて甲子園
を沸かせましたね。当時のチームの主力メンバーには、私の中学の野球部
のずっと上の先輩がいて憧れてました。大人になってその方と酒を飲んで
語り合ったり、一緒に草野球の練習をしたりして感動したことがありました。
それにしても当時の原・赤嶺人気は凄まじかったんですね。赤嶺投手はもち
ろん沖縄の星で地元の大スターでしたが、本土の、しかも野球王国神奈川県
でもアイドル扱いだったとは驚きです。おまけに赤嶺投手以外の選手に対し
てもそうだったとは。
1976年豊見城の平均身長は確かに雑誌等でも168センチとなってました。
それに対して東海大相模は高校野球界屈指の大型チームでしたから、なお
さら小さく見えたでしょうね。
あの頃、豊見城と東海大相模はなにかと因縁がありましたね。赤嶺・原の最
期の夏も、直接対決こそしませんでしたが、東海大相模を破った小山高校を
次の試合で豊見城が破りましたからね。間接的なリベンジではありましたが、
とても嬉しかったです。
しかし、その1976年の招待野球での写真が、日本スポーツ出版社の「夏の
甲子園大会予選展望号」みたいな雑誌の表紙を飾っていた事を知ってるな
んて、M・Kさんは本当に通です。
今日は、報徳学園を招いての招待野球がありましたが、沖縄兵庫友愛35周
年だとかで、パンフレットの内容がいつもより細かくなってました。過去の招待
野球の全試合結果まで載っていました。
(ちなみに1976年の豊見城vs東洋大姫路は、1-1でした。私は記憶違いで
ずっと0-0だと思っていました。)
あと昔のページの事を良く言ってくれてありがとうございます。仰るようにあの
ページは残しておこうと思います。そして、いつかまたあのような野球サイトを
復活させたいと思っています。
M・Kさんのコメントの話題は私の琴線に触れます。あの当時の話題を聞く
と、本当に嬉しく気持ちになります。改めて感謝申し上げます。
また楽しい話題を宜しくお願い致します。それでは。
Posted by neogaia at 2007年05月26日 19:46