2009年06月07日
夏の色

がんばれ 野球っ子
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Posted by neogaia at 21:40
│その他野球
この記事へのコメント
「毎年 沖縄の代表を見るたびに思い出すようになるんだろうな‥他人の気がしないんだよ‥(笑)
今年はいい選手が揃ったし頑張って欲しい‥ 残された時間も少ないし‥」
仕事仲間の友人の母校には沖縄の姓を持つ選手が何人かいます。
横浜市立鶴見工業は1936年、全日制の公立工業高校として設立
過去に一度1954年(昭和29年)に神奈川県代表で夏の甲子園に出場し、地元の鶴見区では鶴工の愛称で呼ばれる歴史のある学校です。
鶴見工業は、港を囲む観光スポットとしても有名な横浜市と、京浜工業地帯のある川崎市の中間に位置し、
同校の近くには、リトル沖縄と呼ぶには質素な沖縄料理の食堂や、居酒屋、物産店等が点在する仲通り商店街があり、周辺地域には大勢のウチナーンチュが住み大小様々なコミュニティを作り上げてきました。
以前いくつか目にした歴史の資料によると、鶴見と沖縄の関係は古く100年程昔、南米航路の玄関口の横浜港を通じ大勢の日本人が農業移民としてハワイ、ブラジル、アルゼンチン等の国々に旅立っていった事が記されており、その中には沖縄からの先人達も多く含まれていました!
夢半ばに渡航費用が底を尽いたり、長旅での体調不良から帰郷する事も出来ず、横浜港近くの鶴見区や川崎界隈で定住し、
また関東大震災や、終戦後に海外から引き揚げてきた二世三世のウチナーンチュが、親類縁者を頼り集まったコミュニティが今の鶴見、川崎に至ったのではないかとの説が多いようです。
戦後の高度成長期に日本経済の支えとなってきた京浜工業地帯には、農村からの大勢の出稼ぎ労働者に加え、沖縄からの力も大きな支えになり、今では想像もつかない程の過酷な労働環境の中、家族を持ち子を育て、厳しい時代を生き抜いてきた先人達には頭も下がる思いです。
苦労を重ねる日々の中にも、毎年郷土のチームに声援を送り、数々の歴戦に勇気づけられてきました‥
土地柄もあり鶴見工業には沖縄の姓をもつ卒業生や、歴代の野球部で活躍した二世三世選手も大勢います‥
また新たな故郷となった鶴見から我が子を野球の聖地へ‥
いつかは郷土のチームや母校と対戦出来たら‥
様々な想いは無限の広がりを見せたことだと思います。
2011年 鶴見工業は70年を越える歴史に幕を閉じる事になりました。
横浜市は開港150周年 市政120周年の節目の今年、学校再編計画に伴い、科学技術専門のトップ進学校を目指す横浜サイエンス フロンティア高等学校を開校し新学期がスタートしました。
鶴見工業は今年度の新入生募集を打ち切り、事実上鶴工の名は無くなってしまいます‥
「礼儀や規律に厳しい野球部は自慢だった‥
お世辞にもガラのいい学校じゃ無かったけど(笑)母校が無くなると言うのは寂しいもんだね‥
50年も昔の話を持ち出しても酷な話しで、今の神奈川で公立の鶴工が勝ち抜くのは正直奇跡が起きても難しい‥
でも名前は消えても、野球部の最後の闘いは歴代のOB達と一緒に見届けたいよね‥」
超名門の私学がひしめきあい、公立の実力校がその座を脅かす全国でも屈指の激戦区の神奈川県!
今でこそ珍しくなくなった沖縄姓ですが、開港を祝い様々なイベントで賑わう横浜の片隅で、70年に渡って小さな沖縄を支え続けてきた鶴見工業‥
県外のチームですが、鶴工スタンドには特別な想いで足を運びます‥
残された時間は2年‥
神奈川の濱んちゅチームは、2、3年生の僅かな部員で夏の激戦区へ挑みます。
今年はいい選手が揃ったし頑張って欲しい‥ 残された時間も少ないし‥」
仕事仲間の友人の母校には沖縄の姓を持つ選手が何人かいます。
横浜市立鶴見工業は1936年、全日制の公立工業高校として設立
過去に一度1954年(昭和29年)に神奈川県代表で夏の甲子園に出場し、地元の鶴見区では鶴工の愛称で呼ばれる歴史のある学校です。
鶴見工業は、港を囲む観光スポットとしても有名な横浜市と、京浜工業地帯のある川崎市の中間に位置し、
同校の近くには、リトル沖縄と呼ぶには質素な沖縄料理の食堂や、居酒屋、物産店等が点在する仲通り商店街があり、周辺地域には大勢のウチナーンチュが住み大小様々なコミュニティを作り上げてきました。
以前いくつか目にした歴史の資料によると、鶴見と沖縄の関係は古く100年程昔、南米航路の玄関口の横浜港を通じ大勢の日本人が農業移民としてハワイ、ブラジル、アルゼンチン等の国々に旅立っていった事が記されており、その中には沖縄からの先人達も多く含まれていました!
夢半ばに渡航費用が底を尽いたり、長旅での体調不良から帰郷する事も出来ず、横浜港近くの鶴見区や川崎界隈で定住し、
また関東大震災や、終戦後に海外から引き揚げてきた二世三世のウチナーンチュが、親類縁者を頼り集まったコミュニティが今の鶴見、川崎に至ったのではないかとの説が多いようです。
戦後の高度成長期に日本経済の支えとなってきた京浜工業地帯には、農村からの大勢の出稼ぎ労働者に加え、沖縄からの力も大きな支えになり、今では想像もつかない程の過酷な労働環境の中、家族を持ち子を育て、厳しい時代を生き抜いてきた先人達には頭も下がる思いです。
苦労を重ねる日々の中にも、毎年郷土のチームに声援を送り、数々の歴戦に勇気づけられてきました‥
土地柄もあり鶴見工業には沖縄の姓をもつ卒業生や、歴代の野球部で活躍した二世三世選手も大勢います‥
また新たな故郷となった鶴見から我が子を野球の聖地へ‥
いつかは郷土のチームや母校と対戦出来たら‥
様々な想いは無限の広がりを見せたことだと思います。
2011年 鶴見工業は70年を越える歴史に幕を閉じる事になりました。
横浜市は開港150周年 市政120周年の節目の今年、学校再編計画に伴い、科学技術専門のトップ進学校を目指す横浜サイエンス フロンティア高等学校を開校し新学期がスタートしました。
鶴見工業は今年度の新入生募集を打ち切り、事実上鶴工の名は無くなってしまいます‥
「礼儀や規律に厳しい野球部は自慢だった‥
お世辞にもガラのいい学校じゃ無かったけど(笑)母校が無くなると言うのは寂しいもんだね‥
50年も昔の話を持ち出しても酷な話しで、今の神奈川で公立の鶴工が勝ち抜くのは正直奇跡が起きても難しい‥
でも名前は消えても、野球部の最後の闘いは歴代のOB達と一緒に見届けたいよね‥」
超名門の私学がひしめきあい、公立の実力校がその座を脅かす全国でも屈指の激戦区の神奈川県!
今でこそ珍しくなくなった沖縄姓ですが、開港を祝い様々なイベントで賑わう横浜の片隅で、70年に渡って小さな沖縄を支え続けてきた鶴見工業‥
県外のチームですが、鶴工スタンドには特別な想いで足を運びます‥
残された時間は2年‥
神奈川の濱んちゅチームは、2、3年生の僅かな部員で夏の激戦区へ挑みます。
Posted by 等々力球場 at 2009年06月07日 23:38