2007年04月10日

奥武山野球場初代ベンチ

奥武山球場・画像

球児の名残 八商工に

海渡り”命”つなぐ

昨秋閉鎖された奥武山野球場の取り壊しが3月いっぱいで完了、今や影も形もなくな
った。しかし、球児の晴れ舞台の名残を感じさせる”初代ベンチ”が、廃棄処分を免れ、
那覇市から約400キロ隔てた石垣島で生き続けることになった。4脚のベンチが現在、
石垣市の八重山商工高校グラウンドで使用されている。
[2007年4月9日付 琉球新報夕刊より抜粋]


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写真:海を渡った奥武山野球場初代ベンチは石垣島で現役で活躍中 = 八重山商工
高校グラウンド
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-22836-storytopic-2.html

 1960年に同球場が完成した当時のダッグアウトは、グラウンドよりもだいぶ低く造ら
れ、奥に備え付けられたコンクリートの台に座っているとプレーが見えなかった。投げ
る、打つ、走るごとにベンチにいる監督や選手たちは腰を上げ、中にはベンチの最前列
まで走り寄る選手も。そこで、落ち着いて試合を見られるようにと、背の高い木製ベンチ
を作った。
 その後しばらくして、ダッグアウトの中にコンクリートを流し込んで底上げしたため、不
要になった。”初代ベンチ”はダッグアウト横の通路に移され、以来、報道陣や関係者が
使用した。
 奥武山の閉鎖が間近になった昨年九月、その年春夏連続で甲子園に出場した八重
山商工野球部監督の伊志嶺吉盛さん(53)=石垣市=が「このベンチを譲ってもらえ
ないか」と、八重山農林高校二、三年時の恩師で、県高野連の奥武山野球場担当だっ
た與那嶺等さん(59)=西原町、知念高校教諭=に相談した。
 「自分が高校生のころは奥武山が甲子園だった。奥武山がなくなる年に甲子園に行
けた。そのことを残したかった」と伊志嶺さん。学校から県の保健体育課へ正式な申請
を経て実現した。
 奥武山野球場から石垣島まで輸送は八重山商工OBと浦添市の運送業・沖縄急送
が”連係プレー”で無償搬送した。たくさんの思いと好意を積んだベンチは今年一月、半
世紀近く過ごした那覇から海を渡って、八商工球児のもとへ届けられた。
 伊志嶺さんは「奥武山という球場があったことを、子ども(選手)たちにもずっと語り継
いでいかないといけない」と言葉をかみしめる。
 奥武山野球場が完成した当時から社会人野球・琉石の選手として活躍し、閉鎖する
最後の年も還暦野球で、奥武山でプレーした名嘉原盛文さん(69)=那覇市=は「ベン
チの木目も背もたれの作りも全部覚えている。伊志嶺君が強い希望で八重山に持って
いったことに敬意を表したい。歴史的なものだし、大事に使ってほしい」と思いをはせた。
(深沢友紀)
[2007年4月9日付 琉球新報夕刊]


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良い話です。奥武山の名残が、このような形で残るとは感慨深いものがあります。伊志
嶺さんも仰るように、昔の私達にとっては奥武山が甲子園でした。その聖地が消えてしま
った今、やはり寂しさは拭えません。名嘉原さんも仰るようにあのベンチは歴史的なもの。
八重山商工の球児達は、これまでの沖縄球児達の熱い想いがしみ込んだあのベンチを
大事に使って引き継いで欲しいものです。大切な沖縄野球の歴史遺産を見事に守り抜い
た伊志嶺さんの行動は、まさに甲子園出場級のビッグプレーと言えるでしょう。そしてこの
記事を取り上げた琉球新報・深沢友紀さんも素晴らしいです。




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Posted by neogaia at 18:53 │旧・奥武山球場