石嶺和彦・中日打撃コーチ

neogaia

2007年03月10日 04:48


[2月17日 / 向かって左が石嶺コーチ。読谷球場にて]


中日ドラゴンズの沖縄・春季キャンプで、沖縄県民にとって非常に懐かし
い顔をみかけました。石嶺和彦・中日1軍打撃コーチです。

かつて沖縄出身野球選手の代名詞といえば「石嶺」であり、豊見城高時
代の甲子園からプロ野球時代に至るまで、常に県民を沸かせてきました。

当時の沖縄野球少年達が皆、彼に憧れました。まさに 「沖縄の星」 です。


------------------------------------------------------------------------
沖縄が誇るスラッガー。その打撃は天才的で、未だかつて石嶺さん以上の打者
は、沖縄県からは出てきておりません。

中日・落合監督とは現役時代には特に親しくはありませんでしたが、天才は天才
を知るのでしょう。落合監督が中日監督に就任すると同時に打撃コーチとして召
集されました。
落合監督の現役時代の内角打ちが天才の技ならば、石嶺さんのそれはまさに
芸術品。グリップを開いて持つ独特の構えから、信じられないような内角球を巻
き込んでスタンドに運ぶ打撃は、フォロースルーでバットを放り投げるまでの一
連の流れがとにかく美しいものでした。

小柄な体から爽快な打球を放つパンチ力と飛距離は、あれこそ天性のアーチス
トと呼ぶに相応しいものでした。





豊見城時代から超高校級捕手として名をはせ、ドラフト2位で阪急ブレーブスに
入団。2位指名ながら広島カープと競合したあたり、その大物ぶりが伺えます。
覚えているのは、当時高卒ルーキーながらオープン戦から起用され、初打席で
左中間を真っ二つに破る痛烈な二塁打を放った事です。当時の阪急・上田監督
からは相当期待されていましたが、入団早々ひざの半月版を損傷。捕手生命を
断たれます。更に肝炎を患い、以後、代打専門及びDH専門となりました。

しかし阪急ブレーブスからオリックスブレーブスにチームが変わった頃は、DH
ながらチームの主砲として大活躍。松永・ブーマー・門田・藤井らと組んだブルー
サンダー打線は、他チームを恐れさせたものでした。当時の打率・打点・本塁打
争いでは常に上位に顔を出し、我々をわくわくさせました。ちなみにその頃の石
嶺さん、肝炎の状態は相変わらず思わしくなくて点滴を打ちながらの活躍でした。

その後フリーエージェントで阪神タイガースへ移ったのですが、思うような成績
を残せず、1996年に18年間のプロ野球生活にピリオドを打ちました。
通算成績は、1,566試合出場・269本塁打・打率2割7分3厘。主なタイトルは、
打点王が1回、ベストナイン3回、6試合連続本塁打、シーズン代打本塁打6本、
56試合連続出塁記録、オールスター出場4回。 立派な成績でありますが、病
気や故障に泣かなければもっと素晴らしい成績を残せたと思います。





甲子園は春2回・夏2回と計4回出場。全国的にもその打撃はずば抜けており、
当時の豊見城の試合には何度も興奮しました。特に石嶺さんが最終学年にな
った頃は秋の九州大会を制し、沖縄から初の全国制覇の夢を抱かせてもらい
ました。沖縄のチームが全国の舞台で強豪校として扱われるまでになったのは
そのときが初めてでした。今でも当時の豊見城が私の中では1番のチームです。





石嶺さんは、今でも憧れの的。その優しい笑顔で元気に活躍しつづけて欲しいと
願います。沖縄が生んだ最高の野球人 「 石嶺和彦 」 をいつまでも応援します。



関連記事